Tà Dương _ 9
それから毎日、お家へが来て、引越しのがはじまった。和田の叔父さまも、やって来られて、ものは売り払うようにそれぞれ手配をして下さった。私は女中のお君と二人で、のをしたり、をで燃やしたりしていそがしい思いをしていたが、お母さまは、少しも整理のおも、おもなさらず、毎日お部屋で、なんとなく、していらっしゃるのである。 「どうなさったの? 伊豆へ行きたくなくなったの?」 と、少しきつくおしたお顔でお答えになるだけであった。 十日ばかりして、整理が出来上った。私は、夕方お君と二人で、やを庭先で燃やしていると、お母さまも、お部屋から出ていらして、縁側にお立ちになって黙って私たちのを見ていらした。みたいな寒いが、が低く地を這っていて、私は、ふとお母さまの顔を見上げ、お母さまのおが、いままで見たこともなかったくらいに悪いのにびっくりして、 「お母さま! お顔色がお悪いわ」 と叫ぶと、お母さまは薄くお笑いになり、 「なんでもないの」 とおっしゃって、そっとまたお部屋におはいりになった。 その夜、おはもうをすましてしまったので、お君は二階ののソファに、お母さまと私は、お母さまのお部屋に、お隣りからおしたのお蒲団をひいて、二人一緒にやすんだ。 お母さまは、おや? と思ったくらいに お声で、 「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」 と事をおっしゃった。 私は、して、 「かず子がいなかったら?」 と思わずたずねた。 お母さまは、急にお泣きになって、 「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」 と、におっしゃって、はげしくお泣きになった。
Tà Dương _ 8
私たちが、東京の西片町のお家を捨て、のこの、ちょっと支那ふうのに来たのは、日本がをしたとしの、十二月のはじめであった。お父上がお亡くなりになってから、私たちの家のは、お母さまの弟で、そうしていまではお母さまの一人のでいらっしゃる和田の叔父さまが、全部おして下さっていたのだが、が終わってが変り、和田の叔父さまが、もう駄目だ、家を売るより他は無い、にも、二人で、どこかの小綺麗な家を、にほうがいい、とお母さまにになった様子で、お母さまは、の事は子供よりも、もっと何もわからないお方だし、和田の叔父さまからそう言われて、それではどうかよろしく、とお願いしてしまったようである。 十一月の末に叔父さまからが来て、鉄道のにのがに出ている、家はでがよく、も百坪ばかりある、あのあたりはので、、住めばきっと、おところと思う、と直接お逢いになってお話をする必要もあると思われるから、明日、とにかくの私のまで、というで、 「お母さま、おいでなさる?」 と私がたずねると、 「だって、お願いしていたのだもの」 と、とてもたまらなく淋しそうに笑っておっしゃった。 、もとのの松山さんにをたのんで、お母さまは、すこし過ぎにおになり、夜の八時頃、松山さんに送られてお帰りになった。 「きめましたよ」 かず子のお部屋へはいって来て、かず子の机にそのままようにお坐りになり、そうおっしゃった。 「きめたって、何を?」 「」 「だって」 と私はおどろき、 「どんなお家だか、見もしないうちに、……」 お母さまは机の上にを立て、額に軽くお手を当て、小さい溜息をおつきになり、 「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの。私は、このまま、眼をそのお家へ行っても、いいような気がする」 とおっしゃってお顔を挙げて、かすかにお笑いになった。そのお顔は、少し、美しかった。 「そうね」 と私も、お母さまの和田の叔父さまに対するの美しさに、を打ち、 「それでは、かず子も眼をつぶるわ」 二人で声を立てて笑ったけれども、笑ったあとが、すごく淋しくなった。
Tà Dương _ 7
蛇の卵を焼いたのを、お母さまに見つけられ、お母さまはきっと何かひどくなものをお感じになったにと思ったら、私も蛇の卵を焼いたのがたいへんな事だったような気がして来て、この事がお母さまに悪いをするのではあるまいかと、心配で心配で、も、またそのあくる日も忘れる事が出来ずにいたのに、けさは食堂で、美しい人は早く死ぬ、などめっそうも無い事をつい、あとで、どうにも言いが出来ず、泣いてしまったのだが、のあとをしながら、何だか自分の胸の奥に、お母さまのおを気味わるい小蛇が一匹はいり込んでいるようで、いやでいやで仕様が無かった。 そうして、その日、私はお庭で蛇を見た。その日は、とてもいいおだったので、私はお台所のお仕事をすませて、それからお庭のの上にをはこび、そこでを仕様と思って、籐椅子を持ってお庭に降りたら、庭石ののところに蛇がいた。おお、いやだ。私はただそう思っただけで、それ以上考える事もせず、籐椅子を持ってにあがり、縁側に椅子を置いてそれに編物に。になって、私はお庭の隅のの奥にあるの中から、ローランサンのを来ようと思って、お庭へ降りたら、芝生の上を、蛇が、ゆっくりゆっくり這っている。朝の蛇と同じだった。した、上品な蛇だった。私は、女蛇だ、と思った。は、芝生をの蔭まで行くと、立ちどまって首を上げ、細い焔のような舌を。そうして、あたりをようなをしたが、しばらくすると、首を、。私はその時にも、ただ美しい蛇だ、という思いばかりが強く、御堂に行って画集を持ち出し、かえりにさっきの蛇のいたところをそっと見たが、もういなかった。 夕方ちかく、お母さまとでをいただきながら、お庭のほうを見ていたら、石段の三段目の石のところに、けさの蛇がまたゆっくりとあらわれた。 お母さまもそれを見つけ、 「あの蛇は?」 とおっしゃるなり私のほうに、私の手をとったままおしまいになった。そう言われて、私も、はっと、 「卵の母親?」 と口に出して言ってしまった。 「そう、そうよ」 お母さまのお声は、いた。 私たちは手をとり合って、、黙ってその蛇を。石の上に、物憂げにうずくまっていた蛇は、ようにまた動きはじめ、そうして力弱そうに石段を横切り、のほうに行った。 「けさから、お庭を歩きまわっていたのよ」 と私が小声で申し上げたら、お母さまは、をついてくたりと椅子におしまいになって、 「そうでしょう? 卵をいるのですよ。可哀そうに」 と声でおっしゃった。 私は仕方なく、ふふと笑った。 夕日がお母さまのお顔に当って、お母さまのお眼が青いくらいに光って見えて、その幽かにをようなお顔は、ほどに美しかった。そうして、私は、ああ、お母さまのお顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこかいらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に蝮みたいにして蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇をいつか、しまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。 私はお母さまのおに手を置いて、のわからないをした。
Tà Dương _ 6
お母さまは決してではないけれども、十年前、が西片町のお家でから、蛇をとてもいらっしゃる。お父上の御のに、お母さまが、お父上のに がいるのを見て、となさったら、それが蛇だった。と、廊下に出てそれからどこへ行ったかわからなくなったが、それを見たのは、お母さまと、和田のさまとおで、お二人は顔を見合せ、けれども御臨終のおのにならぬよう、黙っていらしたという。私たちも、にいたのだが、その蛇の事は、だから、ちっとも知らなかった。 けれども、そのお父上の亡くなられた日の、お庭の池のの、木という木に蛇がのぼっていた事は、私も実際に見て知っている。私は二十九のだから、十年前のお父上の御の時は、もう十九にもなっていたのだ。もう子供では無かったのだから、十年も、その時のはいまでもしていて、は無いだが、私がの花をに、お庭のお池のほうに歩いて行って、池のののところに立ちどまって、見ると、そのつつじの枝先に、小さい蛇がいた。すこしおどろいて、つぎのの花枝を折ろうとすると、その枝にも、まきついていた。のにも、にも、にも、にも、にも、どの木にも、どの木にも、蛇がまきついていたのである。けれども私には、そんなにこわく思われなかった。蛇も、私と同様にお父上の逝去を悲しんで、からお父上のを拝んでいるのであろうというような気がしただけであった。そうして私は、そのお庭の蛇の事を、お母さまにそっとお知らせしたら、お母さまは、ちょっと首を何かような御をなさったが、べつに何もおっしゃりはしなかった。 けれども、この二つの蛇のが、それお母さまを、ひどい蛇にさせたのは事実であった。蛇ぎらいというよりは、蛇を、おそれる、のをお持ちになってしまったようだ。
Tà Dương _ 5
弟の直治はのでされ、のへのだが、がしまって、になってもがで、お母さまは、もう直治にはとしている、とおっしゃっているけれども、私は、そんな、「覚悟」なんかした事はもない、逢えるとばかり思っている。 「あきらめてしまったつもりなんだけど、おいしいスウプをいただいて、直治を思って、たまらなくなった。もっと、直治に、よくしてやればよかった」 直治はにはいった頃から、に、ほとんどみたいなをはじめて、どれだけお母さまに御をかけたか、わからないのだ。それだのにお母さまは、スウプを一さじ吸っては直治を思い、あ、とおっしゃる。私はごはんを口に押し込み眼が熱くなった。 「大丈夫よ。直治は、大丈夫よ。直治みたいなは、なかなか死ぬものじゃないわよ。ひとは、、で、ものだわ。直治なんて、で、死にやしない」 お母さまは笑って、 「それじゃ、かず子さんはのほうかな」 と私を。 「あら、どうして? 私なんか、悪漢のですから、八十歳までは大丈夫よ」 「そうなの? そんなら、お母さまは、九十歳までは大丈夫ね」 「ええ」 と言いかけて、少し。悪漢はする。綺麗なひとは早く死ぬ。お母さまは、お綺麗だ。けれども、長生きしてもらいたい。私は頗る。 「わるね!」 と言ったら、が来て、がから。 のをしようかしら。その四、五日前の午後に、のたちが、お庭のののから、蛇のを十見つけて来たのである。 子供たちは、 「の卵だ」 と。私はあの竹藪に蝮が十匹も生れては、お庭にもられないと思ったので、 「ちゃおう」 と言うと、子供たちは、私のあとからついて来る。 竹藪の近くに、木の葉やを、それを、その火の中に卵を一つずつ。卵は、なかなか燃えなかった。子供たちが、更に木の葉やを上にをしても、卵は燃えそうもなかった。 下ののさんが、のから、 「何をしていらっしゃるのですか?」 と笑いながらたずねた。...
Tà Dương _ 4
私は小さい時から、がおいしくなく、十時頃にならなければ、ので、その時も、スウプだけはどうやらけれども、食べるのがで、おむすびをお皿に、それにを、に、それから、その一をお箸でつまみ上げ、お母さまがスウプを召し上る時のスプウンみたいに、お箸をお口と直角にして、 にをやるようなにお口に押し込み、といただいているうちに、お母さまはもうお食事を全部すましてしまって、そっとお立ちになり、の におを、 私のお食事のを見ていらして、 「かず子は、まだ、なのね。朝御飯がおいしくなるようにならなければ」 とおっしゃった。 「お母さまは? おいしいの?」 「そりゃもう。私はじゃないもの」 「かず子だって、病人じゃないわ」 「だめ、だめ」 お母さまは、に笑って。 私は五年前に、という事になって、事があったけれども、あれは、病だったという事を私は知っている。けれども、お母さまのこないだの御病気は、あれこそ本当に心配な、御だった。だのに、お母さまは、私の事ばかりしていらっしゃる。 「あ」 と私が言った。 「なに?」 とこんどは、お母さまのほうでたずねる。 顔を、何か、 ものを感じて、うふふと私が笑うと、お母さまも、お笑いになった。 何か、 思いに時に、あのな、あ、という幽かな叫び声が出るものなのだ。私のに、いまふうっと、六年前の私のの時の事が色あざやかに来て、たまらなくなり、思わず、あ、と言ってしまったのだが、お母さまの場合は、どうなのだろう。まさかお母さまに、私のような恥ずかしいがあるわけは無し、いや、それとも、何か。 「お母さまも、さっき、何かになったのでしょう? どんな事?」 「わ」 「私の事?」 「いいえ」...
Tà Dương _ 3
弟の直治、ママにはかなわねえ、と言っているが、私も、お母さまの真似はで、みたいなものをさえ感じる事がある。いつか、のおうちので、のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でおのので、をして、 のとの嫁入りとは、のがどうちがうか、などながら話合っているうちに、お母さまは、おになって、あずまやののののへおはいりになり、それから、萩の花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、 「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、」 とおっしゃった。 「をいらっしゃる」 とたら、小さい声を挙げてお笑いになり、 「よ」 とおっしゃった。 いらっしゃらないのにはが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。 けさのスウプの事から、ずいぶんしちゃったけれど、こないだ本で、 の頃のたちは、のお庭や、それからのなどで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。 さて、けさは、スウプを一さじお吸いになって、あ、と小さい声をお挙げになったので、髪の毛? とおたずねすると、いいえ、とお答えになる。 「かしら」 けさのスウプは、こないだアメリカからになったのをして、私がみたいに作ったもので、もともとおにはが無いので、お母さまに、いいえ、と言われても、も、してそうたずねた。 「おに出来ました」 お母さまは、にそう言い、スウプをすまして、それからでおむすびを手でつまんでおあがりになった。
Tà Dương _ 2
スウプのいただきかたにしても、私たちなら、のにすこし、そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬すくい、スプウンを横にしたままにいただくのだけれども、お母さまは左手のをテーブルのに、を事も無く、お顔を挙げて、お皿を見もせずスプウンを横にして掬って、それから、のように、とでも形容したいくらいに軽くスプウンをお口とになるように持ち運んで、スプウンのから、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。そうして、そうにあちこち などなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さなのようにスプウンを、スウプをもになる事も無いし、吸うもお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだ。それは所謂いわゆる正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とてもらしく、それこそほんものみたいに見える。また、、は、口に流し込むようにしていただいたほうが、なくらいにおいしいものだ。けれども、私は直治の言うような高等御乞食なのだから、お母さまのようにあんなに軽くにスプウンをあやつる事が、、、お皿の上にうつむき、所謂正式礼法どおりのないただき方をしているのである。 スウプに、お母さまののいただき方は、頗すこぶるにはずれている。が出ると、ナイフとフオクで、全部小さくしまって、それからナイフを、フオクをに、そのをフオクににいらっしゃる。また、のチキンなど、私たちがお皿を骨から肉を切りはなすのにしている時、お母さまは、で指先で骨のところを持ち上げ、お口で骨と肉をはなして澄ましていらっしゃる。そんなも、お母さまがなさると、可愛らしいばかりか、へんににさえ見えるのだから、ほんものは違ったものである。骨つきのチキンの場合だけでなく、お母さまは、ランチのお菜さいのハムやソセージなども、ひょいと指先でつまんで召し上る事さえ時たまある。 「が、どうしておいしいのだか、いますか。あれはね、の指で作るからですよ」 とおっしゃった事もある。 に、手でたべたら、おいしいだろうな、と私も思う事があるけれど、私のような高等御乞食が、下手にしてそれをやったら、それこそほんものの乞食のになってしまいそうな気もするのでしている。
Tà Dương _ 1
Tà Dương (nguyên gốc tiếng Nhật 斜陽しゃよう) là một trong những tiểu thuyết hay nhất của Nhật Bản thời hậu chiến, là tác phẩm đưa...
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